「三週間後」
旅行からかえって、
玄関の鍵をあけると、
部屋のテーブルの上に
吸殻がいっぱいの
灰皿がのってた、――
こんなことは取り返しがつかない。
(小沢書店刊/飯吉光夫訳)
ギュンター・グラス詩集 (双書・20世紀の詩人 18)
これは、ピタゴラスイッチ、だんご三兄弟の作詞、ポリンキーのCM、ゲームソフト「IQ」等の製作で知られる佐藤雅彦氏の書籍「毎月新聞」で引用された、ドイツの作家ギュンター・グラスの詩の一つだ。
たしかにこういった事は取り返しがつかないと思う。野暮なことだが、旅行から帰ってきて灰皿に気がついて片付ける事自体はできる。しかし、短い中で淡々と事実を述べたうえで一言「こんなことは取り返しがつかない」。これだけで伝わってくるある種の感覚。そしてそれを知らずに共感している自分に気付く事ができる。これと同じような感覚を自分は過去にも経験しているのだろうか?
この詩の引用の後には、佐藤雅彦氏自身のエピソードが続く。大まかにいうと、20年ぶりに高校の同窓会の名簿が送られてきた。同期は370名ほどで、名簿には懐かしい名前が目に飛び込んでくると同時に、勤め先や女性の場合旧姓などが記されており、ついつい見入ってしまう。10ページ程の名簿の最終ページにある「わ」の項目が終わった先には「死亡者」という項目があった。その中には仲の良かったSが載っており愕然とする、といったエピソードだ。そして佐藤氏にとっての取り返しのつかないことを、以下のように語る。
Sの死が取り返しがつかないことは、どうしようにも逆らえないことである。しかし、僕が取り返しようがないと感じたのは、そのことではない。それは、Sが当然どこかで生きていることを前提として、僕自身が生きてきたことである。別の言い方をすれば、僕はそのSの存在があるものとした”バランス”で生きていたのだ。知らずに過ごしてきてしまった長い時間こそ、僕にとって、もうひとつの取り返しのつかないことであったのだ。
p.288
毎月新聞 (中公文庫)
なんというか、シュレーディンガーの猫のような話だが(実際には佐藤氏が知らなかっただけなのだが)、こういったなんとも言えない感覚というのはなんだろうか。例えば、Sが死んでおらず実はライバル会社で働いた事実を10年も知らなかったという場合はどうだろう。おそらくここまで「ある種の感覚」は覚えなかったのではないだろうか。そうならば、やはり悲しい出来事を後から知らされる、それを知らずに過ごした事の背徳感のようなものもあるかもしれない。
話は変わるが、最近ではソーシャルネットワークでは簡単に人と繋がることができる上、知人の現在のステータスを確認することができる。昔の恋人がどうしているだろうなんて事も知ることができる。調べなければいいものの、簡単に調べられるがゆえの誘惑というものがある。これはこれで困ったことだ。
久しぶりに会って本人から聞いたり、風の噂で人からざっくりと聞く話とは違い、本人から直接配信される情報なんだけど決して自分ではない「だれか」に対して発信される情報。それらを日々詳細に知る事ができる社会。今までにない独特の感覚だ。
「別れてから1年後」、Twitterで知人のフォロワーの中に恋人を見つける、クリックすると、TL上に旦那(奥さん)とのプライベートな写真やツブヤキが書かれていた。こんなことは取り返しがつかない!。
なーんて事を経験してうつになっている人も、すでに結構いるんだろうなあと思う。見なきゃよかったっと、自制すべきであったことであるが故の悲しい感覚だ。