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目の独裁と、至上主義 - 気流の鳴る音 (真木 悠介)

 象を知っているか?と言われたら、殆どの人が「知っている」と答えるのではないでしょうか?。
 少々今となっては不謹慎かもしれないが、七人の視覚障害者の話を取り上げます。引用元は現在では差別用語として認識されているメクラを使用しているが、そのまま引用することにします。

むかし七人のメクラがいて、はじめてゾウというものにさわった。鼻にさわったメクラはゾウをヘビのようなものだと言い、腹にさわったメクラはゾウを、カベのようなものだと言い、脚にさわったメクラはゾウを、柱のようなものだといい、シッポにさわったメクラはゾウを、ヒモのようなものだと言う、等々。この話の趣旨はメクラの、片寄ったゾウの像を笑うことにある。
p.101

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)
真木 悠介
筑摩書房
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 目の見える人のゾウの像はおおよそこうでしょう。

Indian Elephant @ Kobe City Oji Zoo / Hyougushi

 それからすると、ゾウはヒモのようでもないし、カベでもないし、ゾウのイメージとしては見当違いと思うかもしれない。そこには、視覚的にゾウの全体像を知っている自分のほうがよりゾウを知っているという暗黙の前提が存在します。
 しかし、実際にゾウに触れた人がどれだけいるだろうか?ゾウを見ただけで触ったことのある人より知っていると言えるでしょうか?

 ゾウの肌ざわり、ゾウのぬくもり、ゾウの呼吸の強さ、ゾウの毛のはえ具合について、われわれはゾウにさわったメクラたちより知ることがうすいであろう。
p.101

つまり、上の写真にあるような広く認識されているゾウの像は、以下のようにも言えるわけです。

われわれのゾウ像もまた、八つ目のゾウ像にすぎない。
p.101

 目の見えない人達の世界が、(視覚)情報を限定された世界であるように、自分たちの世界もまた(はからずも)限定された世界の中にいると言う事になります。
 目の見える人にとっては、視覚から得る情報がなによりも強い情報として扱われます。つまり、現代の我々の文明は、目に依存する文明、視覚情報至上主義者達の文明とも言えます。

このような<目の独裁>からすべての感覚を解き放つこと。世界をきく。世界をかぐ。世界を味わう。世界にふれる。これだけのことによっても、世界の奥行きはまるでかわってくるはずだ。
p.102

 ここには、より物事を深く知ろうとするなら、目の情報だけではなく他の器官からの情報も同列に考え、総合的に「知ろうとすべき」という教訓があるように感じます。

 ゾウに関して言うならば、ただその見た目だけを知っているという事に過ぎません。そして、その見た目だけのゾウ情報で、多くの人と認識を共有できる「文明社会」に身を置いているという事に過ぎません。

 この書籍「気流の鳴る音」は、インディオの生活に身を置いて、我々の文明から見た世界と、インディオから見た世界というもの違いを書いた書籍です。月並みなキャッチコピーですが、それこそ「世界観が変わる」かもしれない書籍です。

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